1. 笑って、さよならを告げる

海の上は遥か遠い場所。
世界も文化も異なり、海のものとは交わることは無いとリョーマは聞かされていた。
気まぐれに水面から顔を出して覗くことはあったけれど、好奇心はあっても面倒臭いていう気持ちが勝り、滅多に海面へと姿を見せることは無かった。
何より地上に住む人間と呼ばれる者達とは異なる姿、彼らから人魚と呼ばれ身体の半分が魚のヒレに似た形を持って生まれた身だ。
両親や仲間に散々気をつけろと忠告されていた。
人間は地上へ滅多に姿を現さない人魚を見つければ、すぐに捕えようとすると。
捕えられたら二度と海には帰れないと。
リョーマとてとても恐ろしいものとして語られる存在を見てみたいと思ったことが無かった訳ではない。
面倒くさいという感情が好奇心を常に上回るだけで。
故に、その日彼を見つけてしまったのは運命だったのかもしれない。
あまりにも退屈で海からひょっこり顔を出した刹那、目に入ったのは見上げる空よりも綺麗な瞳をした青年。
リョーマが時折顔を出す海岸は人間の生活する場所からは離れており一度も彼らを目撃することは無かった為、完全に油断していた。
「お前は…」
人間の瞳の色が分かる程近くで交わる視線。
青年がリョーマに気付かないはずもなく、驚きに眼を見開いていた。
上半身しか水の上に出ていない状態だと人間と変わらぬリョーマでも此処は先にも述べたように人間が寄り付く場所では無ければ、のんびりと泳いでいられるような穏やかな浅瀬ではない。
どちらかといえば流れが速く人間が泳ぐには危険とも言える。
そんなところで平然と海から顔を出して呆けた顔で青年を見つめるリョーマは異端だ。
青年がその存在の可笑しさに気付くのも当然だった。
「やばっ…!」
ドボンッ。
我に還ったリョーマが慌てて水面へと潜ろうとするのと同時に聞こえたのは、盛大な水音。
何事かと思い視線を向けた先に居たのは、先刻の青年。
海の中まで追いかけてきたというのか。
警戒心を露わに男を見据えるが、どうも様子が可笑しい。
『もしかして…』
閉じられた瞼。
動こうとしない四肢。
静かに海の底へと沈んでいく身体を目にして一つの可能性が浮かぶ。
『海に落ちたの?』
万が一襲われた場合でも逃げられる距離まで近づいてリョーマは様子を伺う。
『ねぇ』
恐る恐る声を掛けても変化はみられない。
大丈夫だろうか。
確か人間がこの海域に落ちたら助からないと聞いたことがある。
『アンタ、このままだと死んじゃうよ』
放っておけば良い。
何よりリョーマの姿を目撃されたのだ。
万が一この青年が助かった場合、リョーマの存在が人間達に伝わり仲間が危険に晒される可能性だってある。
なのに。
『ねぇってば!』
動かない男に手を差し伸べてしまったのは、過去に焦がれたことのある空と同じ色が忘れられなかったからかもしれない。
叶うなら閉ざされた瞼の向こうを再びみたいと願ってしまったからかもしれない。
衝動に突き動かされるまま、リョーマは青年の身体を抱えて地上へと泳いだ。
繰り返された忠告と仲間たちの顔が脳裏に過ったけれど、迷いはない。
何かが壊れてしまう確かな予感すらも振り払って、ただただ感情のままに進むその表情は酷く楽しそうなものだった。


残酷な貴方へより 「配布元:capriccio」