君と過ごす日々 その1

▼帰宅とお出迎え

二ヵ月程前から恋人であるリョーマと暮らし始めたマンションの部屋の前で跡部はインターフォンを鳴らした。
鍵を持っていない訳ではないし、両手が荷物で塞がっているなんてことも無い。
ただ単に恋人に出迎えて欲しい。
それだけのこと。
「寝てんのか?」
しかし、いつまで待っても扉は開かない。
念のためもう一度鳴らしたインターフォンにも反応無し。
寝ているのならば良いけれど。
「オイ、越前。居るのか?」
もしかして出られない状況にあるのではないか。
心配になった跡部が慌てて玄関のカギを開け、靴を揃えることもなくリビングの扉を開いた先。
「あれ、帰ってたんだ?」
何とも緊張感の無い声と共に目当ての人物に出迎えられた。
否、出迎えられたというには語弊がある。
其処に居たのだ。
ソファーに座って携帯ゲーム機を手にする恋人に跡部は肩を落とす。
「インターフォン鳴らしただろ」
「危ないから開けるなって言ったのアンタじゃん」
「相手を確認しろって言っただけだ」
誰彼構わず開けるのは危険だと忠告したのに、都合良く解釈するあたり相変わらずだ。
「ただいま…くらい言えねぇのかよ」
出迎えを期待した跡部が不貞腐れたように言えば、逆にリョーマがムッとした表情を見せて。
「アンタだって言って無いじゃん」
指摘されて初めて自分もただいまと告げてないことに気付く。
ジロリと睨まれ、言葉に詰まった。
帰ってきて早々喧嘩をするつもりなんて無い。
「…ただいま」
だからと言って謝るのも癪だった為、一言それだけ口にするとリョーマが跡部の服を引っ張って背伸びしたまま頬に口づけてきた。
「おかえり」
よく出来ましたと笑うリョーマが憎たらしくて跡部は唇に仕返しとばかりに唇へと噛みついた。



▼ある種のマーキング

切欠は久々に会った嘗ての先輩である桃城の言葉だ。
香水でも着けているのかと尋ねられてリョーマは首を傾げた。
あまり強い匂いは得意で無い為、制汗剤の類以外は使っていない。
不思議そうに自分の肩口や腕に鼻を寄せるリョーマに桃城は似合っていない訳じゃないが、イメージと違うとだけ口にしてそれ以上は追及しなかった。
故にリョーマも忘れていたのだが、帰宅した後ふと思い出してしまった。
「もしかして…アンタの香水の匂いなんじゃ」
「いきなり何だよ」
ソファーで隣に座り雑誌を読んでいた跡部に今日の出来事を話すと、彼はリョーマの首元へと顔を寄せて。
「違うんじゃねぇか」
「じゃあ、何で俺からいつもと違う匂いするのさ?」
「知るか。俺にとってはいつもと同じだ」
面倒くさい。
興味無さ気に答える跡部へ納得出来ないリョーマが食って掛かれば、少し考えた素振りを見せて。
「俺のって言えば、あながち間違ってねぇかもな」
やはり共に生活する中で跡部の香水が移ったのかと納得したが、違うと軽く額を小突かれ。
「同じ物使ってるから当然だろ」
「俺、香水なんて」
「シャンプーだの、ボディーソープだの。前にお前が使ってたのとは違うはずだぜ?」
予想しなかった事実にリョーマはハッとした。
言われてみればそうだ。
「…桃城には分かったんじゃねぇか」
跡部の言葉で途中気まずそうに話題を逸らした桃城の姿が浮かんだリョーマは、唇を噛みしめた。
多分、話しているうちに桃城は気付いたのだろう。
同じ部屋で暮らし同じものを使うのだから当たり前のことだ。
けれど、改めて目の前の男と同じ香りを共有していると思うと気恥ずかしくて。
「俺、今からスーパー行ってくる」
財布と携帯を握りしめたリョーマは部屋を飛び出した。
尤も折角買ったそれらは跡部の手によって隠されてしまい、結局同じものを使う羽目になるのだけれど。



▼猫かわいがり

「お風呂空いたよ」
「ああ」
風呂上りのリョーマに声を掛けられた跡部は開いていたノートパソコンから声のする方へと視線を移す。
其処にはパジャマを着て首にタオルを掛けたリョーマの姿があり、ソファーに座ったまま彼を手招きで呼び寄せた。
リョーマは跡部の仕草に僅かに眉を顰めるも大人しく傍に寄ってくる。
最初は抵抗したものの毎日続けば慣れるのだろう。
「ったく、せめてもう少し拭いて来いよ」
「ヤダ。冬じゃないしそのうち乾くでしょ」
文句を言うリョーマからタオルを奪い少し強めに髪の毛を拭くと、立ち上がってドライヤーと櫛を取りに行く。
その間、リョーマはぼんやりと跡部を見つめている。
身体が温まって眠くなってきているに違いない。
「まだ寝るなよ」
髪の毛を乾かしてからにしろと言えば、リョーマは欠伸で返事をする。
この様子ではあと数分もしないうちに船をこぎ出すのは確実だ。
さっさと済ませてしまおう。
まるで猫の世話を焼いているみたいだなんて一人笑いながら、手早くリョーマの髪を乾かし櫛で整えてやる。
「終わったぞ」
「……」
跡部が声を掛ける頃には返事の代わりに規則正しい寝息が聞こえてきた。
この状態で良く寝るものだ。
否、大体どこでも寝ているから今更か。
「此処で寝ると風邪ひくぞ」
「んー」
肩を揺すって呼びかけても寝惚けた声が聞こえるだけだ。
こうなったリョーマは朝まで起きない。
苦笑した跡部は成長しても自分より小さい身体を両手で優しく抱き上げ、寝室へと向かった。



▼朝の攻防

同棲するに当たって挨拶のキスは当然だと譲らなかったのは跡部だ。
別に外ではないし、キスしたことが無いなんてことだってない。
だから跡部の言葉に頷いてしまったのだが。
「ストップ」
「邪魔するんじゃねぇよ」
「ほら、早く行かないと遅れるって」
「だったら、その手離しやがれ」
ほんの数センチで触れるという距離で跡部の口元を押さえたリョーマは、迂闊に肯定してしまったあの日の自分を呪いたい。心から。
挨拶のキスだからと軽く考えていたのがまずかった。
だって誰が想像するだろう。
朝の出かける前に濃厚なキスをするなんて。
その気になった跡部にそのまま玄関で襲われたことも両手では足りない。
「アンタが頬にするっていうなら離してあげる」
壁際に自分を追い込んで悪人宜しくの表情を浮かべる男から如何に逃げるか。
毎朝、リョーマが頭を悩ませ一向に解決出来ない問題である。
「チッ、今日はこれで我慢してやる」
十数分の押し問答の末、今回折れたのは跡部だ。
前髪を指で掻き上げた額に二度キスを落とすと、名残り惜しそうに振り返りながら出かけて行った。
扉が閉まったことを確認したリョーマはずるずるとその場に座り込む。
今日も辛うじて勝ったが、明日はどうなることやら。
帰ったら覚えてろという不穏な言葉はこの際聞かなかったことにしたい。
気力も体力も使って疲れたと項垂れるリョーマは、数分後忘れ物を取りに来た跡部に襲われることをまだ知らない。



▼ちょっとコンビニまで

風呂上りにキッチンをうろちょろしているかと思えば、冷蔵庫を開けたり閉めたりしているリョーマ。
まだ何か食べるつもりかと12時の針を越えた時計とリョーマとを呆れながら見比べる跡部は、扉を閉めると共に聞こえた溜息から次の展開を予想して身構えた。
「ねぇ、アイス」
「買いに行かねぇからな」
「昨日、最後の一個食べたのアンタじゃん」
「知るか。大体テメェは食べ過ぎだ」
少しはその分牛乳でも飲んでろと返せば、舌打ちされた。
「明日にしろよ」
「ヤダ。俺は今食べたいの!」
買ってきてやると譲歩するも、リョーマは譲らない。
そうして睨みあうこと数十秒。
「もう良い。買いに行ってくる」
「ちょっと待て。今、何時だと思ってんだ!?」
跡部に頼んでも無駄だと判断したリョーマはリビングのローテーブルにあった小銭を掴み、玄関へと歩き出す。
このまま一人で行かせるか、待つか。
答えは決まっている。
「俺も行く」
「…だったら買ってきてくれれば良いのに」
玄関で靴を履くリョーマに追いついて隣に立つ。
追いかけて来た跡部の行動すら気に入らないと不貞腐れるリョーマの手を取る。
抵抗するリョーマに構うことなく繋いだまま歩き出すと、諦めたのか数歩後ろをついてくる姿を横目でこっそりと確認した。
コンビニから帰るころにはきっと機嫌も直るだろう。
深夜デートのようなものだと自分に言い聞かせ、跡部とリョーマは静かな夜の道を共に歩いた。



▼ぶかぶかの

纏めて洗濯機に入れて洗えば良い。
着替えがあるから大丈夫と目のつく場所に積み重ねていたのが悪かった。
「何で全部洗っちゃうのさ」
「テメェがいつまで経っても洗わねぇからだろ。少しは片付けろ」
意外と綺麗好きというか、リョーマの想像に反してお坊ちゃんのはずの跡部の方が家事を率先してするのだ。
リョーマが放置した状態が我慢ならずに手を出すと言う方が正しいのかもしれないが。
今回も溜め込んだ洗濯物が跡部に見つかり、全て洗われてしまった。
これはこれで手間が省けた。
自分で洗濯しなくて済んだ思ったのも束の間、反省しろと苦々しい顔をして説教を始めた跡部がリョーマが風呂に入っている隙を突いて全ての衣類を洗濯機に掛けてしまったのだ。
脱衣所にあったのは、跡部のワイシャツ一枚のみ。
下着すら残さないあたり相当怒っているのかもしれない。
流石に真っ裸は勘弁と思い、渋々サイズの合わないシャツを纏いリビングで寛ぐ跡部の前に立ち現状に至る。
「てか、何で上だけ?」
ワイシャツ一枚という心もとない状況にリョーマが抗議すれば、跡部に鼻で笑われた。
「足の長さを考えろ、チビ。シャツが肩からずり落ちてんぞ」
跡部が指摘した通り、リョーマの方側からは肌が露出しており袖からも辛うじて爪先が出ていると言う状態だ。
膝の少し上までシャツの長さが有難いなんてことは全くもって無かった。
悔しさに震えるリョーマの太股へと伸びる手。
明確な意図を持って触れてくるそれに跡部の別の目的を察したリョーマは、思い通りにさせて堪るものかと手近にあった足を思い切り蹴飛ばした。
「…最低!」
スリッパであった為に威力は半減したものの、効果はそれなりにあったらしい。
跡部が怯んだ隙に逃げようとしたリョーマだが、廊下へ繋がる扉へ手を掛けて気付く。
今の恰好では外へ脱出するのは無理だということに。
乾燥機が終わるまで数時間。
跡部とリョーマの本気の鬼ごっこが始まった。



▼君の名前

未だに名字で呼んでいるのかと付き合いの長い友人に指摘された跡部は、苦々しい気持ちのまま帰宅した。
今更と言えば今更だ。
付き合ってそれなりの時間を共に過ごしてきた。
隣に居るのが当たり前でその名前を呼ぶのも当たり前で。
だからこそ気付かなかったというか、現状に満足していたというか。
変える必要があるかと問われれば迷うところだ。
他人は他人。
自分達は自分達で構わないと思う一方で、名前で呼びたいという想いが沸々と沸き起こる。
「…リョーマ」
「え?」
衝動のまま名前を口にした刹那、隣で座っていたリョーマが驚いたように目を見開く。
今何と言ったのかと問いかける視線を受けて気まずさから視線を逸らす。
すると、小さな笑いがリョーマの方から聞こえ、しまったと思った。
今頃、不敵な笑みを浮かべどう跡部を弄り倒そうかと考えているに違いない。
ムードも何もあったものじゃなかった。
畜生。
「景吾」
次に何を言われるかと身構えた跡部の耳に届いたのは、聞きたかった言葉。
まさか、からかう為とはいえ名前を呼んでくるとは思わなかった。
勢いよく振り向いた先、リョーマがしたり顔で笑っているかと思ったのに、何故かリョーマは俯いていて。
「…オイ」
「ちょっと黙ってよ…もの凄く後悔してるんだから」
言うんじゃなかった。
そう言って頭を抱えるリョーマは先刻の跡部と同じ気持ちなのだろう。
耳まで赤く染まった姿を追求したいところだが、生憎とそんな余裕は無くて。
「…やっぱりこの件は暫く保留だ」
「自分から言ったくせに」
二人して黙り込むのだった。
名前を呼ぶ日が来るのははまだまだ遠いようである。