リョーマの逃亡を阻んだ跡部は自分と一緒に来いと言った。
それは、疑問ではなく断定。
雰囲気に呑まれかけていたリョーマもつい言葉に頷きそうになったが、あと一歩というところで踏みとどまる。
ゆるゆると首を振って力の無い拒絶するの様ですら跡部の予想の範囲のようで気分を害した様子はない。
むしろ愉しそうだった。
「俺がお前の前にもう一度現れた時点で選択肢は無ぇ。強がったって無駄だぜ」
こちらの心の内を見透かした跡部が鼻で笑った。
実際、リョーマはすぐにでも男の手を取りたい衝動に駆られていた。
焦がれた想いを捨てて自ら別れを告げた過去。
故に憎んだり嫌うことも出来ないまま、あの頃のような熱情は無くとも燻る想いが胸の片隅に常に在った。
それが、今まさに痛みと共に浸食していく。
「リョーマ」
距離を取ろうとして下がった先にあるのは行き止まり。
逆に距離を詰めた跡部の両腕と壁との間に捕えられ、耳に触れる程近づいた唇が囁いた。
情事の時ですら呼ばなかった名を此処で呼ぶのは狡い。
愛しいと紡ぐ低音はリョーマにとって毒以外の何物でも無かった。
足元がぐらつく感覚。
一人では立てなくなると思った瞬間、思い切り相手を突き飛ばしていた。
「…嫌だっ!」
苦しくて、哀しくて、それでも全部我慢して手放した。
なのに、今になってこんなの。
「望んでない。俺は、アンタとなんてもう…」
「リョーマ」
「触んな、馬鹿!」
ぼろぼろと零れだす感情に蓋も出来ず、両手で顔を覆った。
酷い。
なんて酷い男だ。
だって、もう遅いではないか。
リョーマが本当に追いかけて欲しかったのは、今じゃない。
「出てってよ。俺に構わないで。もう終わったんだ」
全部、全部。
終わらせた。置いてきた。
取り戻せない。あの日には帰れない。
頑なに拒絶するリョーマの姿が跡部の眼にどう映ったかは分からない。
「まあ、良い。今日のところは見逃してやるよ」
そう言って取り出したのは携帯電話ともう一つ。
嘗て彼から贈られ、最後に捨てることも出来ずに返したはずの指輪だった。
てっきり処分されていると思っていたのに。
「覚えてるか、これ?」
固まるリョーマの手の上に落とされた指輪。
無理やり手に握らされた指輪は、昔よりずっと重く感じられて、呆然とそれを見つめていると、跡部が再びそれを手に取る。
「本来なら新しい指輪でも買ってくるところだが、今のお前にはそっちのが良いだろ」
そして、抵抗する間もなく左の薬指にはめた。
鈍く光るそれは年月を経て以前よりきつく感じられる。
ギリギリと縛りつけられるような、そんな感覚。
息苦しさを感じて無意識に指輪を外そうと右手を伸ばすが、其処にあるのが自然だというかのようにピッタリとはまったまま動かない。
やはりサイズが少し変わっているのかと冷静に考えられる余裕などリョーマには無く、無理やり引き抜こうとする。
しかし、どれだけ力をかけても外れない。
まるで呪いのように。
「どうした? 指が真っ赤になってるぜ?」
躍起になるリョーマを黙ってみていた跡部の挑発的な声。
彼は分かっていたはずだ。
この指輪が外れなくなることまで。
「っ…このっ!」
ずっと跡部の手の中で踊らされている状況。
焦りと苛立ちからリョーマが左手を壁に叩きつけようとするが、当たるより先に止められる。
「そんなんで金属が壊れる訳ねぇだろ。先に手がイカれちまう」
わざとらしく呆れた表情を貼り付ける跡部の眸の奥は底が知れない。
恐ろしいと思ったのは、彼の見せる執着か確実に転がっていく自分自身の心か。
「じゃあ、これ外してよ!」
「仮に外れたとしても、どうせ捨てられないんだ。一緒だろ」
要らないと叫んでも、跡部は怯むどころかリョーマを煽る。
本当に捨てることが出来るか否か。
答えは聞くまでもなく跡部の語る通りだろう。
捨てろと言われて結局また捨てられない自分の浅はかさと浅ましさに吐き気がする。
慎ましく存在を主張するプラチナのリングは形になった未練そのものだった。